昭和52年02月22日 古屋家霊祭



 まだ御霊様の御生前の時に、古屋さん所の御霊の御祭りがここでありましたけれども、こんな御霊の御祭りを仕えて頂いたのは、初めてだったと言って大変喜ばれたことがありましたがね、あの時の表情をそのまま、今日はいただいた。ですから、お喜びの様子だろうとこう、私思いましたけれども。
 次にね、頂きましたことが、こう花に、壺に、あの花をこう挿している、挿してるけれども水が少なくて、根が水まで浸かりきっていない、「こげなことしよんなら、こら枯れるが」と私は、あの御心眼頂きながら思わして頂いたら、誰かがそれに水を挿して頂くところを頂いた。これは私共がお道の信心の有難いというのは、よく金光様の御徳によって、金光様が足りない所は、足しておかばい下さっておると言う事。
 これは御霊もやはり、私共も理屈は同しことだと思うんですね。足りない所は、神様が足して頂けておると言うそこに、お取次ぎの働きというのを、まあ感じますわけですけれども。今朝からそのことで、おかばいと言う事でいろいろ頂いたんですけれども、今御霊様のお祭りをさしてもろうて、金光大神の御徳によっておかばい下さるおかばいと、天地の親神様がかぼうて下さるおかばいとがあるようですね。
 例えて言うと薔薇なら薔薇の花をこの寒中にね、寒中には芽が出とるやらどうか分からんところに、藁でこうやって覆いをしてやりますでしょう、あれはやはり人が花をかばう。もうこの霜にはこの雪には、とても耐えなれないだろうからというのでかばうわけです。そして春が来るまでかばって下さってある。やはり天地の親神様のおかばいもやはりそうです、だから問題はいや枯れておったらもうお終いです、枯れておるものはかばいはしませんよね、花がもう枯れとると言ったら、もうほたらかしてます。
 けれども心に生き生きとした神様を求めるというか、求道の心というか、有り難いとか勿体無いというその心がある限り天地が必ずかぼうて下さる。そして、これが来る春には花も芽も出る、花も咲く、ということを神様が御承知だからかぼうて下さる。これは天地のおかばい。けれどもこれは、日に日に生きるが信心と仰るように、その生きた信心をさせていただいておらなければ、天地のおかばいは受けられない。
 私、金光大神のおかばいは、例えば、御徳によって、例えば足りない水の所に、これではもう枯れましょうね。だからこれに水を足して下さる様な働きは金光大神の働きだろうと、そのおかばいも二通りあるなあと言う様なことを分かりましたんですけれどもね。今日私は、昨日からまあいろいろな思いで夕べは過ごさせてもらったから、夕べはほとんど一睡もしなかったんですけれども。
 朝の三時一五分には起きますから、起きてからすぐ神様に「今日はおかげを頂いてから眠らん修行させて頂いて有難うございます」と言うて神様にお礼を申さして頂いたら、さんずいへんに十の文字、これは汁という字ですかね。ほんとに私どものおかげを、良いおかげを生んでいくという頂き方はこう言う事だなと、夕べは眠らんかったから、睡眠薬なっと飲んで寝ろうかてんなんてんと言った様なね。
 考え方は恐らく折角の修行がマイナスになる、こういう生き方はもう全然おかげの頂けない方へ、頂けない方へと行く様なもんですよね。けれどもどういう場合であっても私どもは難儀と感ずる時に「結構な修行させて頂いて有難うございます」と言った様な、私は頂き方受け止め方は、もう必ずいうならさんずいと言う事は自然の働き、神様の働きということでしょうが、それにプラスしていく働きになると言う事だと今朝から思わせていただいたんですけれども。
 最近ここでいわれる合楽理念というのは、そういうほんとに今朝からあの先生方の研修の時も申しました事ですけれども、合楽ではもうその気にさえなればどんなに頭が悪かろうが、どういう人であろうがその気にさえなれば力が受けられる、お徳が受けられる、こういう信心さえすればというものが、説明が付けられますから。ただしそれをその気にならなければ難しい、その気にならなきゃあ出来ない。
 もう本気で例えて今申しますような、もう例えばきつい苦しい時には、結構な修行をさせていただき有難いというような生き方、これひとつだけでももう必ず力も受ける、徳も受ける、いわば春におうたら花も咲く実も実ると言う事ですけれども。そういう受け方が生きた受け方、それがそういうふうに受けられんで、難儀なことで困った事だ、苦しい事だという受け方は、もういよいよ枯れた人のいうなら、信心の無い者も同じこと、あとは信心があっても枯れた心ですから。
 金光大神の御取次によって、お取次ぎの働きで頂くおかげと、そういう自らの生きた、生き生きした心で、よっておかげをいただいていくおかげが変わっていく違う。そういう私は今、ここの御霊様の場合、あの今月は、これはもう御霊様の式年祭やら慰霊祭を仕えさして頂きましたが、もう御霊様は、もうそのなんていうんですかね、その肉体を持っておられない魂だけの世界。
 ですからいうならば苦を感じられない、いうならば生活苦なら生活なら生活っていうのがかかってない。ただ魂が本気で助かろうとする働きだけしかないから合楽理念なんかをもう毎日朝晩御理解をいただいて、もうその気で一生懸命御霊ながらの本気での修行が出来ておるという感じですね、この御霊様は。そういうあの様子が、あの数年というかもう七、八年にもなりましょうか、あのこちらで初めて御霊様の御祭りを私が、古屋の家の慰霊祭を仕えさせてもらった時に。
 古屋さんがほんとにもう長年信心はするけれども、こんな御霊の御祭りは初めてだったと言って感激して御礼があった、時のような様子を頂いた事は、御霊ながらも一生懸命に、やっぱ修行があって、例えば生きた、いうならば受け方働き方が出来ておられるんだと私は思うんですね。これはお互いの信心のところで、もういっぺんおかげを頂いて、いうならば、あの金光様のお取次ぎによって金光様がかぼうて下さって。お水を下さるという生き方よりか、もう自らの信心のお恵みのお水を受けて。
 生き生きとして花が、つぼみならば咲きましょう、しおれておる花なら生き生きと水上げも出来るだろ、と言った様な信心をいよいよこれは遺族の者と私どもがそういう信心を目指さして頂かなければいけないなと。私今日の御霊様の御祭りを、今の御祭りを奉仕さして頂いて、金光様のおかばいと天地のおかばいというのは違、しかも両方のおかばいがほんとに、いくらどうしたからというてこれで済んだとは思わんというのが私どもの生き方になってこなきゃならんのですから。
 いうなら足りないことだらけの、ですけれども生き生きと神様を求めて、いうなら神様へひとつの憧念心を燃やすよう信心をさせていただくことによって、いよいよ金光大神のおかばいと共に、天地のおかばいを受けて、今は苦しいというのは、まだ神様がね、そして生き生きと信心はしておる、それは今神様がね、おかばいを下さっておるような状態ですから、やはりその事にはお礼を申し上げなければならない。
 例えば苦しかった、おかげでなら私が今朝方から思わしていただきましたように、昨夜はおかげで眠らん修行をさしていただいて有難いといったような、さんずいへんにこのプラス、このプラスになっていく、ひと汁くらいでも積み重なって行く事が信心の力を受けて行く事であろう、徳を受けて行く事だろうと私思うです。信心しとってもここにはこういう受け方が出来ない、合楽理念がほんとに入ってない証拠です。
 合楽理念が入ったら、ほんとにいわゆる一切神愛と言った様な受け方が出来て、一切を有難いと受けていけれる、また受けていかなければ馬鹿らしい、またその気になれば誰でも受けられるという信心を今合楽では打ちだしてある、それを合楽理念に基づいてというふうに言ってますが。まちっと本気で合楽理念のマスターに心掛けさしてもらわなければならないと思うですね。
   どうぞ。